★広島大学*理学部一号館
こちらが広大で最も有名な建物である理学部一号館です。ちなみに被爆建物です。
老朽化が激しい上に被爆建物なので、壁が剥がれ落ちて学生がケガをしたらしく、このような注意文が貼られていました。
引いて撮った写真だと分かると思いますが、上のほうの壁が本当に剥がれ落ちています。
この写真で見ると、写真の真ん中に見える建物の角の部分がガッツリ剥がれ落ちてますね。 よく、持ちこたえたものだと少し感動しちゃいます。
こちらは被爆建物の理学部Ⅰ号館の窓です。窓の形が昔の建物っぽくて良いでしょ?
こちらも被爆建物の理学部Ⅰ号館のどこか。写真の右下の扉(?)なんかもレトロな感じですよねー。木なのかな?金属なのかな?
多分、理学部Ⅰ号館の時計がある正面側から見ると、真裏あたりから撮った写真じゃないかと思うのですが、違ってたらごめんなさいm(_ _)m
★移転前の広島大学千田キャンパス。どこだか分からない場所達
広島大学の昔の写真のネガを見つけて、写真やさんにデータに起こしてもらったのは良いものの、どこだか分かんなーーーーーい!
というわけで、写真に番号をふっておいたので、覚えていらっしゃる方は教えてくださいませ。ブコメとコメント欄の両方を開けておきますのでヘルプぅうううう!
001 経済学部?とか文学部?
002 経済学部?とか文学部?
003 総科か教育の入り口?
004 総科の窓?
005 経済の廊下?
006 コメントで文学部の木造校舎だと教えていただきました。
007 コメントで文学部の木造校舎だと教えていただきました。
008 コメントで文学部の木造校舎だと教えていただきました。
009 コメントで文学部の木造校舎だと教えていただきました。
010 コメントで文学部の木造校舎だと教えていただきました。
011 これ、どこだよ…
012 カエル大先生は覚えてる。理学部Ⅱ号館のとこにいて、いつも頭に小銭を載せてるの。
013 これは体育館前から正門側を撮ったところ。ここを抜けて生協やサークル棟に行っておりました。
014 違う学部の建物から見た総科?
015 これは覚えてる人も多いかもしれないけど、生協の食堂の裏にあった石碑。学祭の時は、打ち上げと称して、飲んだくれたアメフト部が全裸になるショーをやっていましたね(笑)そしてギャラリーがたくさん集まってお祭り騒ぎ。ほんと、昭和っぽい。
★広島大学女子寮/山中寮の居室や老朽化の様子
こちらは山中寮の玄関近くにあった階段です。
こちらはその階段を2階から見下ろした様子。
夜はやはり薄暗かったですね。
全ての部屋には番号が振られていました。
こちらが居室の扉。女性らしくドライフラワーなどを飾っている寮生もいました。
扉を開けるとこのような様子。二人部屋で仕切りはなにもありません。右したに少し見えると思いますが手前は畳ベッドになっており、奥に机を置くスペースが少しだけあります。
これが畳ベッドの奥の様子。1.5畳程度のスペースに色んな物を置くので、非常にガチャがガチャした感じになってますね。このスペースに元々備え付けの机を置いたままの人もいれば、この写真のようにパソコンを置く人、こたつを置く人などいろいろでした。
ベッドスペースとこの僅かなスペースしか居住空間がなく、しかも仕切りも何もない暮らしっていうのは現代の学生さん達はどう思うのか興味がありますね。
私が入寮した時代は、もうすでにフローリングのワンルームのマンションなども存在していましたから親から仕送りをもらっている人はそのようなマンションに住んでいました。ですから、入寮してしてきた新入生も、この設備の古さ、不便さ、部屋の狭さ、プライバシーのなさなどがどうしても無理だったのか、毎年最初の一ヶ月で退寮していく人が3人くらいはいましたね。そういうわけで、外の高い賃貸より、個室もない不便な設備のバラック寮を選ぶような、よりすぐりの貧乏女子ばかりが住んでいたわけです。
一番の問題は電話が寮に一台しかなかったこと。山中寮は記念物的な扱いであるため壁に穴を開けてくれるなという大学側の要望もあり、居室に電話を設置できなかったのです。さらにまだそのころはNTTの固定電は加入権を買わなければならない時代で加入権は安くても7~8万だった気がします。(それより少し前だと10万円以上)ですから、貧乏学生が加入権を買えるわけもなく、電話を待っても待っても使えないので、外の公衆電話に行ったりしておりましたね。
電話は寮に一台しかなかったため、電話をとった人がこのマイクで呼び出しの放送をするルールでした。
こちらが掃除当番表で、掃除を済ませたらマグネットを隣室のところに移動させるという仕組みでした。
こちらは掃除当番の人のために掃除のやり方を書いた紙です。掃除する場所ごとにこのような張り紙があり、掃除の手順を支持してあるので、今考えれば発達障害の人でも手順が分かるというすばらしい仕組みだったなと思います。
建物が古いので雨漏りのあともあります。
塗装も剥がれていました。
このような隙間もあちこちにありましたね。
親からの仕送り0円の人も多かったのですが、貧乏女子学生達は家庭教師のアルバイトなどをしながら、たくましく生きておりました。これが昭和が終わりかけたころの貧乏学生の青春の模様です。
★広島大学女子寮/山中寮の設備
当時の広島大学の女子寮は一つしかなく、二人部屋の部屋が24室ありました。(覚えている方は教えてください。)ですが、4年になると卒論で静かな環境がほしいということで二人部屋を一人で使うということになっていたので、実質寮生は40人強だったと思います。
これらの写真は40人に対しての設備ですので、時間帯によっては待ち時間もかなりのものでした。寮生どうしで「(なんでも待たなきゃいけないとか)ここは中国かよっ!」って大笑いしながら、娯楽室で電話、洗濯機、お風呂が空くのを待っていたものです。
自治寮でしたから、寮内の設備、寮費、寮生の管理は自分達で自治会を作って運営しておりました。ですから自治会議も開かれ予算や決算の発表も行なっていました。確か私も副会長をやった記憶があります。自分達でどうにもできないことは自治会役員が学生課に相談に行っておりました。
さらに全ての寮生が自治会員ですから、いくつかの班に必ず所属しなければならず、例えば文化班なら定期的な寮誌の発行、季節のイベントの運営などを行なっておりました。
こちらはキッチン。40人に対してコンロ3口、蛇口が4口、瞬間湯沸かし器が1台でした。冬は当然水が冷たいので、瞬間湯沸かし器で洗い物をしたい人が増えるので、ちょくちょく様子を伺って空いたら使ってました。
スポンジはキッチンに置いておいても問題ないのですが、洗剤は置いておくと盗難や使用されてしまう恐れがあるので置いている人は少なかったような気がします。
たまたま、キッチンで作業していた寮生を撮影。
こちらがキッチン入り口の左側にあった共用の冷蔵庫。食料を入れる時は名前を書いて入れるルールでした。自前の冷蔵庫を廊下に置いている寮生も多く、使っている人はいるにはいたようですが、やはり盗難をおそれてか調味料ぐらいしか入っていなかった記憶があります。
またその隣には、今では珍しい瓶のジュースの自販機、基本的に寮生は親の所得の低い人達ですからあまり買っている人を見かけたことはありませんが、空き瓶ケースに空の瓶が入っていることはあったので誰かは買っていたようです。
キッチン入り口に右側には連絡用の黒板、ベンチその右側には掃除当番表がありました。写っているのお風呂の掃除道具。キッチン入り口に向かって右側にお風呂の入り口があり、そこを入ると脱衣所、お風呂となっていました。
この写真の左側、キッチンの奥の方にお風呂のガス釜があるのがおわかりでしょうか?
こちらが40人が使用するお風呂。お風呂と洗濯機は待ちましたねー。昔の家庭用のお風呂ですから、まずシャワーがない。それにお湯が出るわけではなく、水を湯船に入れながら釜で水を炊くシステムなので、混ぜながら入らないといけないんですよね。さらにシャワーがないのでお湯を湯船から汲んで体や髪を洗わなければなりません。
で、これに一人ずつ入っていたら夜の決まった時間内に入りきれないので、一度に3人入っていいというルールでした。ですが、やはり3人で湯船を囲んで座ると結構キツキツな感じだったので、お風呂をのぞいてみて2人入っているようなら、やはり一人が出るまで待ったりしていました。
こちらが洗濯場。これも40人に対して3台ですから、待つ時は結構待ちました。左側の障子が娯楽室なので、2階の人などは娯楽室で洗濯機、電話、お風呂が空くのを待っていました。
娯楽室から洗濯場側を撮影した写真です。
こちらは布団乾燥機。どこに置いてあったっけ?
こちらはトイレ。一階の南側にありました。二階の人達は1階におりてこなければいけませんでした。
こちらは廊下に設置されていた水道。キッチンやトイレの遠い人はここで洗い物や洗面をしていましたが、なにせ、お湯がでませんから冬は水が冷たかったですねー。
こちらは郵便物の保管管理ケース。私達の当時はこの書類ケースで郵便物が管理されていました。
その向かい側には、昔使っていたと思われる郵便物ラック。そして下にあるゴミ箱は、生ゴミ用だった気がしますが、記憶が曖昧。
郵便物ラックの奥は階段下スペースで、掃除用具などがあった気がします。床のすのこが割れてますね(笑)みんな貧乏学生なので建物のいたみは誰も気にしていませんでしたね。