★広島大学女子寮/山中寮の居室や老朽化の様子
こちらは山中寮の玄関近くにあった階段です。
こちらはその階段を2階から見下ろした様子。
夜はやはり薄暗かったですね。
全ての部屋には番号が振られていました。
こちらが居室の扉。女性らしくドライフラワーなどを飾っている寮生もいました。
扉を開けるとこのような様子。二人部屋で仕切りはなにもありません。右したに少し見えると思いますが手前は畳ベッドになっており、奥に机を置くスペースが少しだけあります。
これが畳ベッドの奥の様子。1.5畳程度のスペースに色んな物を置くので、非常にガチャがガチャした感じになってますね。このスペースに元々備え付けの机を置いたままの人もいれば、この写真のようにパソコンを置く人、こたつを置く人などいろいろでした。
ベッドスペースとこの僅かなスペースしか居住空間がなく、しかも仕切りも何もない暮らしっていうのは現代の学生さん達はどう思うのか興味がありますね。
私が入寮した時代は、もうすでにフローリングのワンルームのマンションなども存在していましたから親から仕送りをもらっている人はそのようなマンションに住んでいました。ですから、入寮してしてきた新入生も、この設備の古さ、不便さ、部屋の狭さ、プライバシーのなさなどがどうしても無理だったのか、毎年最初の一ヶ月で退寮していく人が3人くらいはいましたね。そういうわけで、外の高い賃貸より、個室もない不便な設備のバラック寮を選ぶような、よりすぐりの貧乏女子ばかりが住んでいたわけです。
一番の問題は電話が寮に一台しかなかったこと。山中寮は記念物的な扱いであるため壁に穴を開けてくれるなという大学側の要望もあり、居室に電話を設置できなかったのです。さらにまだそのころはNTTの固定電は加入権を買わなければならない時代で加入権は安くても7~8万だった気がします。(それより少し前だと10万円以上)ですから、貧乏学生が加入権を買えるわけもなく、電話を待っても待っても使えないので、外の公衆電話に行ったりしておりましたね。
電話は寮に一台しかなかったため、電話をとった人がこのマイクで呼び出しの放送をするルールでした。
こちらが掃除当番表で、掃除を済ませたらマグネットを隣室のところに移動させるという仕組みでした。
こちらは掃除当番の人のために掃除のやり方を書いた紙です。掃除する場所ごとにこのような張り紙があり、掃除の手順を支持してあるので、今考えれば発達障害の人でも手順が分かるというすばらしい仕組みだったなと思います。
建物が古いので雨漏りのあともあります。
塗装も剥がれていました。
このような隙間もあちこちにありましたね。
親からの仕送り0円の人も多かったのですが、貧乏女子学生達は家庭教師のアルバイトなどをしながら、たくましく生きておりました。これが昭和が終わりかけたころの貧乏学生の青春の模様です。